藻岩山麓通り号泣ドライブについて

 2023年2月2日、藻岩山麓通り。

 僕は愛車ワゴンRを駆りながら、号泣していた。

 なにがあったのか。

 奥さんに怒られて逃げ出したわけではない。

 我と我が身を振り返って、あまりの幸の薄さに悲しくなったわけでもない。

 ましてその前の夜に、「もうやめにしましょう」という台詞を残して、愛人が去っていったわけでもない。

 いったい、なにが54歳のいい歳をしたオッサンを号泣せしめたのか。それも、70000キロを超えんとする4代目ワゴンRの運転席で。

 状況としてあまりにシュール。昔のガロの漫画にでも出てきそうな絵面である。

 引き金を引いたのは、レベッカのフレンズだった。

 前日に引越しを終えた我々は、大量のゴミに圧倒されていた。引越し前にすべて出すことが出来ず、しかも直前までゴミは増え続けた。正規の荷物より、ゴミのほうが多いのではないかと疑ったほどだ。

 我々は、ゴミと暮らしていたのだ。

 この量では、ゴミの日が来てもゴミステーション(北海道ではゴミ置き場をこう呼ぶのです)に一度に出すことが出来ず、いつまでたっても無くならない。

 そこで、札幌市の清掃工場に持ち込むことにした。

 引越しで酷使された老兵ワゴンRちゃんの座席を倒し、ゴミを満載にして発寒に向かった。

 外は雪景色。陽射しが眩しかった。

 僕はAMが死んでから、普段は滅多につけないラジオのスイッチを入れた。NHKのFM放送の午後の番組だった。80年代の日本のポップスを次から次へと流していた。

 そして、レベッカのフレンズがかかった。僕が高校生だった頃のヒット曲だ。

 その曲は、その頃つきあっていた女の子を必然的に思い起こさせた。彼女がレベッカを好きだったわけではない。マドンナのファンである彼女は、レベッカのある曲がマドンナのパクリだとよく批判していたのだ。

 いい曲じゃないか。

 僕はそう思った。そして当時の僕や彼女のことを思い出していた。

 あの頃はみんなまだ幼くて、どんなに懸命に生きても、結局誰かを傷つけ、そして自分を傷つけていた。そういう年齢だったのだ。誰が悪いわけじゃない。多かれ少なかれ、誰もが通過する道だったのだ。

 僕はフレンズを聴きながら、思考が流れるにまかせた。そして・・・・・。 

 たぶんその時、無意識に僕がしたことは「ゆるし」だったと思う。僕は当時の幼かった僕を許し、彼女を許し、取り巻いていた状況を許した。

 それはほんの一瞬だった。

 気がつけば、僕は声をあげずに号泣していた。なにかのタガが外れたように、涙がぼろぼろと溢れてくる。

 「いったいどうしたんだ?」

 理由がわからなかった。

 ちょっと説明しづらいが、若い頃の自分を許したことに感動していたわけではないのだ。まして昔を懐かしんでいたわけでもない。

 それらは、引き金にすぎなかったのだ。

 涙は、ハクにもらったおにぎりを食べる千のようにぼろぼろと溢れた。

 やがて僕は、いくつかのことに思いあたった。

 少し前に読んだ、サドグルの「インナー・エンジニアリング」。そこには若いサドグルが初めてサマディに入った時のことが書かれていた。気がつけば、彼は大量の涙を流していた。彼は何時間もの間、丘の上に座り続けていた。時間の感覚もなしに。

 もうひとつは、クリスチャンならこれを「聖霊に触れられた」と言うだろう、ということ。僕も経験があった。初めて異言が出た夜は、涙をとめることが出来なかった。

 もうひとつは、キリスト教徒をやめたあと、世界とひとつになった感覚に包まれた日のこと。その感覚に包まれた時にわかったのは、「もともと世界と我々はひとつで、それを忘れているだけだ」ということだった。

 しかしその日のそれは、そのどれをも凌駕していた。

 大丈夫、サマディに入ったわけじゃない。その証拠に運転しているじゃないか。

 そう、意識は冷静そのものだった。

 やがて清掃工場に着いた。工場に入る前に、僕は涙を拭いて鼻をかむ必要があった。

 大量のゴミを降ろし、料金を払って礼を言い、ひとりになるとまた涙が溢れてきた。

 まるでなにかに包まれているようだ。

 それはけっして見えないけれど、明るく春のせせらぎのようにキラキラと輝いて、無言で僕を励ましていた。すべてを受けいれ、すべてを肯定していた。そこには善も悪もなかった。目に見えない光だけがあった。

 僕は引っ越したばかりのアパート目指して、藻岩山麓通りを南へと走った。走っている間、涙は溢れつづけた。

 家に帰っても、容易にそれはとまらなかった。

 

 今はあの日のことを、僕なりに受けとめています。でも、それはまだ容易に解釈したり、言葉に直せないものなのです。

 でも、これだけは言えると思う。

 あの日の出来事は、今でも僕の胸のうちを、静かに暖め続けてくれているのです。