カルマとダルマについて
https://twitter.com/sx4scrossnya/status/1660761720934244353?s=46&t=5CTCaV4HncsHk7jHBWeiLA
上に貼ったけれど、今朝のツイッターの格言に「カルマ落としはダルマ落としニャ」と書いたんだけど、インスピレーションだと信じたい。
カルマは「行為」という意味があるらしいけれど、一般的にはその行為による「結果」を指すことが多い。
たとえば、誰かを殴ったら殴り返された、とかね。
つまり過去の自分の行いが、現在の出来事に結果として現れるのがカルマと言われることが多い。
ヨーガの世界観は、生まれてから今までだけが過去ではなく、数えきれないほど転生してきた過去も含めて「過去」だとされている。
もしそうならば、自分がどんなカルマを持って生まれてきたかなんてわかりっこない。
ただただ、今の人生でカルマを解消していくしかないんだな。
よい思いと行ないにひたすら打ち込んで、悪いカルマをひとつひとつ解消できればいいけれど、よほどの聖人君子じゃないと無理だと思う。
でも、安心してください。
厳しい修行に励まなくても、僕を含めた普通の人々にもカルマの解消は出来ます。それは、
「ひどい目にあう」
ことです。これしかありません(個人の見解です)。
どんなによい人でも、病気になったり、仕事を無くしたり、奥さんが男と逃げたり、最愛の猫と死別したり、身体が痛いのに笑いヨーガをやらされたり(これはやったほうが悪いです。やらされたわけではありません)、人生には色々辛いことが起こるよね。
たとえヨーガの教えと出会って、真理に目覚めて心を整えて生きていても、お釈迦様のようにはなかなか生きられません。
大きな悟りを得てないかぎりね。
だから、日々なんらかの小さなトラブル(あるいは大きなトラブル)とつきあいながら生きている。
そこで、せめて僕はこう考えるようにしている。
なにか悪いことがあったら、「ああ、これでカルマがひとつ落ちた」と。
なんのカルマかは知らんけど。
でも、悪いカルマが落ちる時って衝撃があるんだよね。多くの場合、それは不幸な出来事として現れるんだけど。
もしその時に、必要以上に悲嘆に暮れたり、怒りにまかせてなにかしでかしたりすると、新しいカルマを作っちゃうことになる。
だから「ダルマ落とし」だと思って、じっと耐えるのです。ダルマさんが転ばないように、背筋をまっすぐにして衝撃に耐えるのです。
ダルマを「本当の自分」だと思って。
苦しい時は苦しいって言ってもいい。
悲しい時は泣いたっていい。
痛い時は悲鳴をあげたっていい。
でも、自分を転ばさないこと。心を濁らさないこと。誰かのせいにしないこと。
人生で起こることは、すべて自分が受けとめる覚悟で生きてゆくこと。
個人的に、子供の頃からの出来事を振り返ると、どうも僕はカルマをたくさん抱えて生まれてきたらしいのです。いつものように、詳細は割愛しますが。
ありがたいことにヨーガと出会って、学びの機会に恵まれている。だったらなおさら悪いことが起きても、これは「試験」だぐらいに思わないとね。
最後までダルマ落としを上手に出来たら、ダルマさんが地面に座って悟っちゃうかもしれないしね。
そういえば、達磨太子と違う「ダルマ」は、「調和」という意味だったなぁ。
よいことも、悪いことも、わけへだてなく受け入れて、調和を目指して生きていこう。
そんなふうに思う、今日この頃なのであった。