異言について

 異言、と書いて「いげん」と読みます。

 大多数の人は「なんじゃそりゃ」、と思うんじゃないかな。

 無理もありません。だってこれ、キリスト教用語なんですもん。

 僕がかつてキリスト教徒をやっていたことは、前にも書いた。その時に所属していた教会は、ペンテコステ派聖霊派と言って、この異言を大事にしてる教派だったんだな。

 キリスト教をまったく知らない人のために整理すると、キリスト教カトリック正教会に対して、宗教改革で生まれたプロテスタントがあります。

 プロテスタントにも色々教派があって、聖書を字義通り丸ごと信じているのが福音派(共和党・トランプ支持者で有名ですね)。

 その福音派の中でも、聖霊の働きを重視するのがペンテコステ派聖霊派(長いんで、以下聖霊派で統一します)なわけです。

 聖霊派は、聖霊の働きを重視すると書きましたね。ということは、簡単に言えば他の教派や普通の福音派より霊的だ、と言えるし聖霊派のクリスチャンはそれを自負している人が多い。まあ、カリスマ派なんていうもっと過激な人たちもいるらしいけど。

 ペンテコステ、というのはキリストが復活後に天に挙げられた十日後の出来事のこと。弟子たちみんなが祈ってたら聖霊がどーーーんッと降ってきた。するとみんな口々に知らないはずの異国語を喋り始めた。

 これが異言の始まりね、と言うと厳密な人々はあれは外国語であって異言と違う、と言われそうだけどまあとりあえず。

 僕が初めて異言を聞いたのは、夜の祈り会に初めて参加した時のこと。先輩のクリスチャンたちがみんなこの異言で祈るのよ。ベラベラベラベラ、ちょっとなに言ってるかわからないんだけど、とにかくさまざまな発音が聞こえてくる。

 羨ましかったなあ〜〜〜。うん、憧れました。

 まあ僕もその後、滝に打たれたり火の上を走って渡ったり、艱難辛苦の苦行の末に異言を授かりましたけど(嘘です。キリスト教徒はそんなことしません)。

 異言には人それぞれ個性があって、僕に出るようになった異言は、ニュースでウクライナの人々の言葉を聞いて「似てるなあ」と思ったということから、だいたい想像してください。

 異言で祈ると、なんというか気持ちいいのね。なにも考えなくていいし。聖霊様が臨まれているんだなあ、と思えるし。

 あ、聖霊というのは三位一体(父と子と聖霊)の神のひとつで、立派な神なんですぜ(と、キリスト教では定義されてるのね)。

 お祈り、というのが苦手な僕は(はっきり言ってめんどくさい)礼拝や祈り会では異言でばかり祈ってた。これでちゃんと祈りになってるのかなあ、なんて考えながら。

 僕は3年半ほど教会にいたんだけど、その間おおむね楽しく「異言ライフ」を送っていた、のだが。

 事情はここでは割愛するけど(割愛が好きな男だなあ)、僕はある日突然教会を出奔するわけです。

 抜け忍第二弾、ですね(抜け忍も好きなのかなあ)。

 教会へ行かなくなってしばらくの間、僕は「ああ、これでイエス様と離れたんだなあ。聖霊様もきっとどこかへ行っちゃったに違いない。天のお父様怖いなあ。蛙とかイナゴの大群を差し向けたりしないよなあ」と、わりとボーーっと暮らしてました。

 自分なりの考えがあって教会を出たとはいえ、神から離れるということはそれなりに重い出来事だった。

 やがて独学で仏教を学び始めるまで、そんなふわふわした日々が続いた。

 そして数年後。

 じつはここからが本題なのです。大丈夫、ここまでだらだらと書いてきましたが、本題はすぐに終わります。

 ある朝、目が覚めてなにか喋りたい衝動にかられて声を出してみると、それは異言だったのです。

 おかしいな、教会離れて何年も経ってるしキリスト教の教義だってもう信じてないし、聖霊はとっくに離れてるはずなのに。

 そう思いながら僕は久しぶりに異言でベラベラ喋ってたのね。

 どうも、異言というのはキリスト教会が独り占めしていいものじゃないらしい。

 じゃあ、異言ってなんだろう。と、僕は思ったのであった。と、いうところまでが今回の本題です。

 異言は今でも出ます。時々奥さん相手に異言で喋ってます。相変わらずなに言ってるかわかりません。

 その異言の主を想定して名前をつけちゃったり、「異言マッサージ」と称して異言を喋りながら奥さんの背中をマッサージして、「ああ、気持ちいいわぁ」と有り難がられたりという話は、気が向いたらいつかまた今度。